セカザツ045回でユッスーが紹介していた孟嘗君について、昔の日記があったので転載します。
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オレの好きな小説に『孟嘗君』という本がある。
中国の戦国時代を凌駕した大宰相の話だ。
かの戦国時代に王者がいたするならば、それは孟嘗君のことであろう。孟嘗君の名は田文(でんぶん)という。また、もっている領土の名から薛公(せっこう)とも呼ばれる。
この偉人はあまりにも近い。人に近い。遠くにいるのに近い。地位が高いのに庶人の近くに生きている。この人情というか、仁というか、孟嘗君の人柄に人が集まってくる。
ここで、“仁”という言葉について、この名宰相を育て上げた豪放磊落の傑人、白圭の言葉を借りて説明しておきたい。
「人を愛すれば、勇気が湧く。人のむこうにあるおのれを愛することを仁という。人のこちらにあるおのれを愛することは仁とはいわず、そこには勇気も生じない」
孟嘗君には仁がある。どんな人をも愛する器量の大きさがある。器が半端じゃなくでかいのだ。中華の制覇は中華全土を己のうちに治める器量があるかどうかできまるのだ。
孟嘗君にはそれだけの器の大きさがある。
人は孟嘗君に魅了されてやってくる。孟嘗君の放つ光によってその才を解き放つ。そして、ある者は英雄となり、ある者は中華統一への王者の道を拓く。
最近、この『孟嘗君』を読み直そうと思って再び本を開いた。
ある者は孟嘗君の器量の大きさを洞察し、思わず、
「田文(でんぶん=孟嘗君)はひとではないのか」
とつぶやいた。これに対し孟嘗君は
「わたしのとりえは、盟(ちか)ったことかならず守るということだけで、ほかには何の能もありません」
と答えた。
またある者は
「わたしは薛公(せっこう=孟嘗君)にはなれない。しかし薛公のようになりたいと思っている」
とつぶやく。このつぶやきを遺した者こそ中華に伝説を残す大将軍となり、後に諸葛孔明の憧れとなった楽毅である。
オレも憧れるような偉人をたくさん知っている。でも、彼らと同じようにはなれない。でも、彼らのようになりたいと思っている。
人にはその人にしか生きられない生き方がある。生き様がある。命ある限り、生ある限り、自分らしく光を放つ生き様を遺していきたいものだと思う。
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