第021回「カジュアル悟りについて考える」で紹介した英雄譚について、過去の日記で触れていたものがあったので転載しておこうと思う。
以下、2009年8月29日の日記から。
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古今東西に伝わる英雄譚。そこには共通の流れがあるという。
確か、以下のようなものであったと記憶している。
1、旅立ち・・・英雄はまず旅に出る。
2、遭遇・・・その先で仲間に出会ったり、敵と出会ったり、助けを求める人と出会ったりする。
3、冒険・・・そして冒険が始まる。敵を倒したり、ヒロインを救い出したり、困難を乗り越え勝利する。
4、帰還・・・すると必ず最後には、そこに残ってくれという要望が出る。ヒロインとの結婚の申し入れや莫大な財宝と地位などを与えるなどの条件をもって引き止められる。しかし、英雄はそれを断り、必ず帰還するという。
これが古今に伝わる英雄伝説に共通する骨格だそうだ。一見すると3の「冒険」にばかり意識がいってしまうのだが、あらためて筋書きだけ抜き出してみると最後がかっこいいね。そここそが本当に英雄だとうなずける点だ。実際自分だったら3で満足してしまって戻れないなって思ってしまう。でも、英雄は自らの信念を曲げない。「旅」とは「家出」ではなく、行って帰ってくるものなのだ。そして、戻ってくるからこそ、また新しい旅もあるのだ。
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さて、同様に、偉業にも4つの段階があると言われている。
1、無関心・・・はじめはその運動や行動は無視される。誰も気にも留めない。
2、嘲笑・・・・そのうちにあざ笑われるような時期に入り、バカにされる。
3、批判・中傷・・・そしてその運動や行動が実際に結果や効果を及ぼすようになると、まずは強烈な批判にさらされるようになる。正しい行動は必ず強烈な批判。中傷にさらされ、ついには讒言まで飛び交う。
4、賞賛・・・・そのすべてを乗り越えたある日を境に、一転して賞賛を浴びるようになる。正義と真実は、批判・中傷の洗礼を経て初めて賞賛という栄誉にたどり着くのだ。
確かに歴史をつぶさに振り返ってみたとき、あらゆる偉業や正義の運動はみなこの流れをたどってきたと言えよう。自らが正義ならば、断じて3の「批判・中傷」でくじけてはならない。それは4の「賞賛」へ至るために必要不可欠なステップなのだ。
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こうしてみると、今ではくだらないと思えるようなおとぎ話や歴史を学ぶ意義があるように見えてこないだろうか。記録という人類のあらゆる行動の蓄積は、人が英知をもって読み解くとき、未来を読み解く予言書にもなり、また自らの指南書にもなりうる、と僕は思っている。人の行動パターンというものは4000年ぐらいではそう変わらない。
なぜ、歴史を学ぶのか、なぜ文学を学ぶのか。
それはそこに秘められた自分へのメッセージ、未来を開くカギを見つけるためだ。
社会人になると、多くの人がもっと勉強しておけばよかったと思う。
でも、学校の勉強なんて社会に出て何の役に立つのか、という疑問に当の社会人ですら、上手には答えられないことが多い。
目的の見えない行為に真剣になれないのは当たり前。
だから後悔してても今も実際にはやっぱり踏み出せないでいる。
勉強の意義、本当の生きた教養、学ぶ楽しさ―。
それを自ら体験し続け、いつでも新鮮なかたちで伝えられる大人になりたいなと思う。
僕は歴史一つにしても、知識の伝達者ではなく、学の喜びの伝達者でありたいな思う。
コメント
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偉業に限定しなくても、現状を変える時には必ず批評、中傷にさらされる訳です。
現維持も大事な事で有るとも思いますが、更なる高みを目指すなら、風当たりは覚悟する必要は有ると考えます。日々、一歩一歩、歩いて行く、自分の進む道を信じて。
って感じではなでしょうかねぇ(笑)
そうですね。でも、偉大なことでない現状変革って案外さらっと行く場合もあるし、批判や中傷まで浴びることは少ないと思いますよ。もしも現状変革で強い風を感じるなら、それはもしかしたら正しい道の暗示かもしれません。岡本太郎的な人生への第一歩ですね。
チャイさん
歴史を学ぶことから、人生の目的が見えて来るろいう点。とても同感です。
最近、鹿児島の知覧(特攻隊基地があった場所)に行く機会があったのですが、
まだまだやりたいことがたくさんあって、散華していったごく普通の青年たちの遺書を読むにつれて、
自分の命の使い方について、とても考えさせられました。
そして、自分の命を何の役に立てようかと思った時の指針になるのが
日本が築いてきた歴史だったり、世界のはじまりと世界が進もうとしている方向を知ることは
外せないんじゃないかと思いました。
いやー重いですね。
畳の目の更新楽しみまってます^^