昨晩、畳の目の第026回を配信しました。
今回のエンディングの宇田川の話は必聴だと思う。正直、オレ自身も励まされたところがある。宇田川は本当にもつべき親友であり、語るに値する“真友”だ。
ところで、冒頭フリートークの自分の話はやっぱり伝わらないなあと思ってしまった。
***
自分で聞いてみても、今回は、チャイが無責任な発言をすることを正当化するような話にしか聞こえないかもだけど、オレが言いたかったのは中途半端であっても「発信し続けること」の意義。完璧を辞して沈黙を守るより、中途半端であっても発信を「続けること」に比重をおくということ。それはオレが今を全力で生きているから。中途半端なやつが適当に無責任なことをいうのはオレだって嫌だ。でもたまに自分もそういう時があって、それはそれで自己嫌悪している
でも、今のオレは、そういう自己嫌悪や反省もすべてひっくるめても発信し、他者と交流することの方に意味を見出している。
真に生きようと挑戦すればするほど、真理に近づいていく。
それはあたかも科学ではあらゆる実験(それが失敗の積み重ねであっても)の中で徐々に真理が明かされていくような、
また、ビッグデータのような大量の統計とも言えないような繁多な資料から一つの傾向がみえてくるような、そんなようなもの。
一度、真理に到達してしまえば、あとはすべてそのために必要不可欠な過程であって、その一つ一つに決定的な意味はないのだ。
とにかく、続けていくということ。成長とは、端的に言えば変化である。真に生きるものは変わっていく。より進化していく。
だからオレは、ただ単に発言がぶれることを推奨しているのではなく、人生を真剣に生きることを前提に、その試行錯誤に果敢に挑戦することを推奨している。
***
よく人は、「失敗は財産だ」とか、「失敗してもいい」という。
でも社会に出ると、そんな空気は微塵もない。
発言や行動にはいちいち責任が問われるし、一貫性が問われるし、信頼が問われる。
そんなんで、失敗できるかって思う。
そして失敗を受容できない社会に未来はないとさえ思う。
一つの偉大な業績の裏には、日の目も見ず歴史の闇に葬り去られた膨大な実験や試行錯誤があるの。
たった一つ、頂(いただき)に立つ旗の下には目を覆いたくなるような先人たちの屍(しかばね)があるの。
失敗はマジで怖いよ。すべてがまっくらになる。
すべての信頼を失う。
自分の価値が何も見出せなくなるの。
だからやっぱり、「失敗してもいい」なんてリップサービスはいらない。
「試行錯誤せい」なんて、きれいごとはいらない。
なんていうか、失敗したい奴はたぶんどこにもいない。オレだって失敗したり恥ずかしい思いしたりするのは嫌だよ。
***
なんていうかね、「失敗してもいい」という言葉に隠されている決意は、「真剣な戦いへの情熱」なの。
つまり、「本質と格闘する志があるのか?」ということなの。
それは、自分がその真理に近づく気迫であり、その行動の一つ一つに意味や責任を感じる余地はないの。
オレが常に求めているのは行動なのだ。
だから少なくともオレは、自分なりのやり方で行動するんだ。
結局責任は自分がとるもの。
オレが行動し、オレが話し、オレが思ったことは、仏法によれば、まさに身口意(しんくい)の三業(さんごう)によってオレに返ってくる。だからすべてはオレとオレ自身の問題なのだ。
そう確信できた時、オレは自由になる。
***
目指す人はどんどん成長していく。
オレはこの一生で進化したい。
そのために失敗の数を誇れるくらいでちょうどいいと思ってる。
凡人がひくくらいでちょうどいいと思ってる。
すべてが千変万化し、変わり移ろいゆくものの中で変わらないものは何か。これが「信念」だ。
それはオレにとっての「信仰」とも言える。この一点においての「決断」がすでになされたという意味において、オレに怖いものはない。
オレは信仰への覚悟という不自由によって、究極の自由を手にしている。
オレを貫く一本の筋は、オレの哲学への挑戦であり、オレの世界観構築への挑戦であり、「妙法自在」に生きるという挑戦である。
オレはオレの人生に体当たりで挑戦している。その試行錯誤が自ら立てた「問い」と自らの人生をかけた生きざまでの「応答」だ。
オレは自らの信念によって自分の人生を拓き、ひいてはあらゆる人生を開くきっかけを見つけたいと思っている。
オレはマジだ。だから、オレに関わったやつの運は必ず開くよ。
オレは必ずどんな人の可能性も拓く哲学と技術と実践の方途、そして神託ともいえる手段を確立したいんだ。
そのために教育的手段だろうが、宗教的手段だろうがは問わない。その人の人生を拓き、その人を開花させる力をつけていきたい。
だからみんなカモンだぜ。
一緒に、語ったり、のんびりしたり、助け合ったり、慰めあったり、でも時に背伸びしたりして、最高の人生を生きよう!
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
私は仕事柄、「失敗してもいいから」と言います。そこには、「失敗を恐れて何も行動できないでいるのは、成長のチャンスを逃しているよ。失敗したらしたで一緒に受け止めて、あなたの成長につなげてみせるよ。」という、私の覚悟も入れているつもりです。
失敗したい人間なんていないし、社会では一度の失敗も許されず、人生を台無しにすることもよくある話。そんな中で、「失敗してもいいから、やってみろ」と子どもたちに言うことが、彼らの為になるのか、疑問に思ってしまうことももちろんあり…。でも、私はやらないことよりやることを選択することを推奨してしまいます。
大人だから、子供だからということはおいといて、全力で生きている人は、人に信頼感のようなもの(うまい言葉が見つかりません)を与えるのでしょう。その人の中で何か中途半端だったり何か腑に落ちないことやたとえ失敗があったとしても、全力で向き合っていることがおのずと感じられるから。
チャイさんは、冒頭のが伝わんないなあと言うけど、言いたいことはリスナーさんたちには届いているはずです。いつもチャイさんは全力ですよね!!
話がまとまらず、すみません。思ったことを、思ったままに。
ぽっぷ
コメントありがとう。ぽっぷがオレの考えに真摯に向き合い、こうして答えてくれたことがうれしいよ。
話がまとまるかまとまらないかは畳的にはどうでもいい。ただ、「真剣」の二字に「誠実」で答えてくれる人をオレは信用する。「失敗してもいい」って優しいようでとてもとても厳しい言葉なんだということをオレは痛感しているよ。失敗には信頼の失墜や心の傷がともなうからさ。でも、それを知って、それを受け入れてこそ、その先にある希望の光がつかめるんだよね、だから失敗はいいことなんだけど、軽いことではないってことね。
オレはこれまでも自分の言葉で多くの失敗をしてきたよ。でも、これからも失敗していくつもりなんだってことね。
これを読んでよかったです。
これを読むまで、今回配信の回のチャイさんは攻撃的で否定から始まってるようで、今や宇田川クンファンのわたしにとっては、これは繰り返しては聴きたくないなあと感じてました。
思ってることを言える、考えの途中でも話せる間柄って貴重だと思います。
とても良い関係なんですね。もう一度この回を聴こうと思います。
最近ではセカザツの配信よりも畳の目の配信の方が楽しみなくらい(笑)ハマってます。
これからも、チャイさんの常に真剣勝負なおしゃべり、楽しみにしてます。
mizuさん
コメントありがとうございます!僕は時に攻撃的や否定的になってしまうことがあります。中には繰り返し聞きたくない回があるのも理解できますが、それ以前に繰り返し聞いてくださってることに感謝です!!
宇田川君ファンでいてくれることはとっても嬉しいです。宇田川君への評価はそのまま自分への評価も同然だと思ってますので、宇田川君好き、チャイ嫌いでも、個人的にはプラマイ0です。(笑)。
でも、最終的には僕のこともなんとか受け入れていただいたようで良かったです。いつも勝手なことばかり話していますが、今後ともどうぞよろしくお願いします。