たまにセカザツやchainext.comあてにやや重い相談がくることがあります。
中でも宗教関連の悩みなんかは本当に人に相談するのが難しく、どうすればいいのかわからない。そういう気持ち、本当によくわかります。
信仰を知らない人に相談し、きちんと理解されないまま返答されても納得できないし、信仰をしている人はその筋の関係者で結局偏った返答になってしまう。そう感じてしまうのではないでしょうか。
そこで僕としては、信仰に関する悩みにはできるだけお答えしたいと思ってきました。
自分もそれなりに信念があるため、返答に偏りはあるかもしれないけど、その人の選択のなんらかのヒントになればと、できる限り誠実にお答えしてきたつもりです。
今回は本人の承諾を得たので、ある信仰に関する悩みメールとその返答について掲載したいと思います。中学生からのメールです。
おそらく似たような悩みを持たれている方は、ほかにもいらっしゃることと思います。その人にとって、なんらかのアドバイスになればと思っています。
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<ご質問者さんより>
突然ですが、私の親族は、宗教を信仰しています(出家したりするほど熱心?ではないのですが)。
そのため自分も、幼い頃から祈りの言葉を唱えさせられたり、極短い経典なら二つくらい意味は曖昧でも空で言えるようになりました。
しかし…。はっきりいって信仰は好きではありません。ずっと正座で祈るのはあまり楽しいことではありませんし、集まって近況報告をする会などに無理矢理参加させられるのも嫌でした。
そして、最近その事で親と喧嘩をしてしまいました…。
私としては、人生の教祖は自分だと思っています。さまざまな思想家などからさまざまな考え方を学び、自分に最もあった形の生き方を決めていく…。そんな様にこれから生きていきたいです。そんな私の意見に対し、他への信仰はどこか他人に考えてもらっているような、そんな感じがするから、もう信仰はしたくない。そのことを話すと母は「そう…。」と悲しそうな顔をし、それからはもう信仰へ誘ってくることはなくなりました。
それから数日が過ぎ、もうギクシャクすることはなくなりましたが、あの母の顔はわすれることができません。
宗教関連以外では、とても優しく、自分のことを考えてくれ、いい母なだけに、悪いことをしてしまったという気持ちが拭えません。
信仰していたことによって、近隣の信者さんとの繋がりや、宗教に興味を持つことができたり(信仰は好きではありませんが、宗教の文化などはむしろ好きです)、恩恵もありましたが、やはり信仰はしたくありません。
また、今宗教に対するこの気持ちをあらわにしたことをきっかけに、なかのいい、いとこや近隣の信者さん(みんないい人)との仲がギクシャクするのも怖いです。
今信仰を断つというこの選択は正しかったのでしょうか…?
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<チャイより>
本来なら番組向けのメールに対しての返信はしていないのですが、内容が内容ですので私チャイが個別対応で承りたいと思います。
今回のお問い合わせについて、正直なところを申し上げると、思春期の親子の関係という問題以上のなにものでもないように感じています。
つまり、中学生という年ごろはすべからく誰人も親とけんかをするのです。
それは時に、親の大切にしているものや親の価値観と真っ向からぶつかるような深刻な様相をおびてしまうこともあります。○○さんの場合は、これがたまたま親の大切にしている「信仰との激突」というかたちであらわれてしまったのではないかと推察します。
何を隠そう、私自身にもこういった過去はあります。
中学生というのは、一人前の大人を目指し、己を確立するために本能的に躍起になっている時期です。一人前の大人になるために、自分の存在を確認するために、それは身近な人へ牙をむく行為として表れてしまうことも珍しくないし、そして何より自分自身を自分たらしめているものは自分自身以外の何物でもないという強い確信を必要とする時期でもあります。そういった背景があって、いわば親との激突ならびに、自分の存在を脅かしかねない(と自分で感じてしまった)信仰に対して、拒絶反応が出てしまったのだと思います。
では、どうすればいいのか?
まず、親との関係については自分が成長しなくてはなりません。
そしてこれには、思った以上に時間がかかります。親を許し、親を包み、親に感謝できる自分に成長していくことです。
これは、決してお説教ではありません。それができる大人こそが「真に魅力的な大人」なのです。
少し時間をかけて長期的に考えてみてください。
次に自分の信仰についてですが、私自身の個人的な見解として、信仰をもっている者、もしくは信仰の近くにいる者が“信仰を捨ててしまう”ことほど悲しく虚しいことはありません。人はすべからく一人では生きていないし、自分の考えというものは他者との間に初めて成立するものであるからです。
また、私は、人は必ず何かを信じて生きていると思っています。信仰を捨てた人間が、その自分自身の信仰の位置に「科学」や「お金」をおいて生きていくのはもはや時間の問題です。この価値観自体を否定するつもりはありませんが、これだけで世界が語りつくせると考えるのは大いなる間違いであります。自分の理解だけで世界を矮小化してしまう者にこの世界の実相の豊かさを享受することはできません。私は信仰というもののダイナミズムにふれるチャンスがあるのなら、是非、それを生活に生かし体験していってもらいたいと思っています。
信仰については、今の自分で判断をするのではなく、もう少し時間をかけてみてはいかがでしょうか?
それと、信仰を捨てるのではなく、「信仰を選ぶ」くらいの気持ちで、「自分の中心となる価値観」「人生観」の確立を目指していかれてはいかがでしょうか?
信仰とは生き方です。
信仰とは生活の知恵です。
信仰とは信念です。
信仰とは奇跡の源です。
自分における信仰とはなにか?
それを己に問い、真剣に向き合っていくことをお勧めしたいと思います。
力になれたかはわかりませんが、自分が思ったことをつらつらと書いてしまいました。
また何かあればご連絡ください。
一人の兄貴として○○さんの成長を願っています。
チャイ
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僕でよければ、悩み相談をいつでも承っています。リアルチャイペディア、必ず力になれるとは限りませんが、もしも何か一人で悩まれていて、どこにも相談相手がいないのならchaichauchao@gmail.comまでメール下さい。
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