この前、ユッスーと一緒に母校の同窓会に行ってきた。
ユッスーと一緒に同窓会に行くなんて、もしかしたら初めてのことかもしれない。
同窓生の代表が社会でどう活躍しているかの報告があった。会社の重責を担い海外赴任で活躍する同窓生の話などだ。卒業後、10年以上経ち、そろそろ自分たちの世代が社会の中核で活躍し始める年代になってくる。
それはそれでよい話だ。
でも、なんか腑に落ちない自分がいた。
全体的になんか違和感を感じる。
なんていうか、オレにとって大学時代ってのは青臭い夢みたいな理想みたいなのに燃える時代だった。
オレは、学生時代に本当に悔いなく生きるという生き方ってどんなものなのか?
自分のみならず、他の人の為に自分に何ができるのか。
もっと角度をつけて言えば、オレの人生の目的、使命みたいなものって何なのか?
そんなことを考え、自分なりに模索し、追究してきた。
そしてオレの、いわば幸福論みたいなものとして、
「究極の幸福とは他者の幸福だ」
というものも確立された。
人生の究極的な幸福って、隣にいる大切な人がキラキラ輝くような笑顔でいてくれるその瞬間にこそあると思う。
大切な人、大好きな人、信じ合える友、信頼してくれる後輩、尊敬する先輩、親、妹。。。
ディズニーランドに行ったら、自分が楽しいと感じる瞬間じゃなくて、隣にいる大好きな人が、本当に楽しいと笑ってくれる瞬間の方が絶対幸福だ。そして、その幸福感って明らかに自己満足のものよりも圧倒的に上だ。
だから、オレは人生の究極の幸福は他人の幸福の上、もしくは他人の幸福の延長線上にあると思ってる。
それを追求する以上に魅力的で、生き甲斐があり、満足の人生って多分ない。
そして、その他人ってのをどれだけ広げていけるかが己の器だ。
人は、自己愛に生きる存在である子どもから、恋人を求め愛することができる青年になる。
そして、無条件に全てを包み込む子どもへの愛を知り、さらにその深みを知る。
でもさ、だいたいそこ止まり。
もっといけるんだよ。
もっともっと遠くまで、もっともっと他人まで、もっともっと深くまで。
それを追究するのをキリスト教的に言えば、まさに愛の道。
キリスト教でいうところのエロスとアガペの違いみたいなもの。
仏教的に言えば、菩薩道と言える。
人生はさ、どれだけ自分を広げ、どれだけ他人の幸せに貢献できるかで、その深さ、価値が決まる。もっと言えば、面白さも決まる。
モラトリアムでも構わない。
ただ真摯に己の生き方を問うのが、学生時代の本分だとするのなら、自分の器を広げ、より他人の幸福へのコミットに挑戦する日々が大学時代であり、それが、本当は仕事なんだと知って世に出るんだよ。
大学教育はさ、自分だけの為に受けるものじゃない。
自分を最大限に、生かし、他人を最大限に生かしていく道を知り、あるいは模索して、社会を真に幸福なものにするための挑戦者を作り出す為のものなんだな。
学問という最大の遊びの場で自分を探し、生き方を求め、そして、真に生きていく存在になるんだよ。
それとさ、誰か他人の為に生きるって自己犠牲なんかではなくって自分の究極の幸福を目指す、本当の自分の幸福の道なんだよ。
また、それは自己満足ではなくって、自分も相手も幸福の相互満足の世界でもある。
限りある命を他者の為に費やす。
これってものすごい生き方。日常が何段階にも深まり、世界が全く違うものになる魔法を秘めているんだぜ。
話はだいぶそれちまったが、大学時代って、そんな人生を模索しようと思ってた。
ちなみに、その手本のような見本のような凄まじい歴史が宗教上にはいくつも散見されるから、その歴史に学ばずして人生の深みを目指すのは、砂鉄が磁石で集められるのを知らないで、砂場で砂鉄集めをしているようなものだ。
できるかもしれないが、途方もない。
だからさ、大学の同窓会ってのはさ、それに挑戦し、社会でどう戦ってるのか?
何とぶつかって何にもがいてるのか?あるいは、自分が世界の為に何を貢献できているのか?
そういう熱い話を聞きたいのよ。
そして、同窓会なんていうのは、そういう熱いパッションを思い出す場なのよ。
成果を語るなら、人類への貢献を高らかに叫んでくれ。
思い出に浸るのなら、あのパッションを思い出させてくれ。
個人的な成功なんてのは、よそで頼むよ。
と、ユッスーと語りあったわけだ。
そしてユッスーは、「次はオレが手本を見せてやる」と。
いいね。
それでこそ我が誇れる真友だ。
地味で、構わない。
成功と呼べるものでなくてもいい。
でも、少なくとも挑戦ではあるべきだ。
己の信じる道への着実な一歩を。
いつも真面目である必要はない。
遊び心がないと、正義の押し売りみたいになっちゃうから。
だから、いきなり意味不明なマグカップを売り出すような茶目っ気も必要。(笑)
現実はあまりにも過酷であり、
あまりにも退屈であり、
あまりにも単調であり、
あまりにも苦しいこともある。
だから、真友が必要なんだ。
だから、芸術が必要なんだ。
だから、宗教が必要なんだ。
現実を真に生きるためには、自身と丁寧に向き合い祈るような時間を日々に取り入れ、
否、
その決意と気概を、確かな“祈りに込めながら”
今日もパワフルに生き抜くんだ。
未来のオレは想像以上にいけてる。
今、彼女いないのが嘘みたいだ。(笑)
そう、確信していこう。
信念をもつ人生を、オレらは生きたいんだな。
ちょっとスイッチ入っちゃったけどさ、みんなも大丈夫!
オレだって高尚な人生を生きられてるなんて到底思えてない。
畳の目を聞いてるみんなは知ってるだろう。(笑)
でも、“目指している人”であるんだ。
いや、“目指している人になりたいんだ”という方が正確なくらいだ。
毎日の日常に忙殺されて毒されて魂奪われてる事だって多いよ。
でも、時折、深く自分の原点に戻り、自分を見つめる時間があることが大事なんだ。
こういうわずかな差が大事なんだ。
わずかな角度の差が10年後20年後には、自分を全然違う遠くまで連れてってくれるよ。
思うところ、共感できるところがあるやつはこっちの味方だ。
共に、熱い人生を生きよう。
なんなら連絡くれ、そのうち飲みに行こう。
コメント
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なんか、チャイさんの様々な活動に関わるホスピタリティーがわかった気がした。いや、正確にはわかってなかったですね。思いやりなんてもんじゃない、もっと深い、人への愛でしたね。何を書いても薄っぺらくなってしまうので控えますが、自分の原点に戻り、見つめる時間をちゃんと確保して、私はちゃんと私の時間を生きたいと思いました。私はヨガかな、自分と向き合えるとき。明日からまた優しくなれるかな。
僕もヨガ始めたのでそういう意味でも生活の中に生かし、人生の安定の為に活用していきたいです。
自分のホスピタリティってそんなにあるか、わかんないけど、自分の中にあるものすごくきれいな心。青春の志は殺したくない。それは、きっと誰の心にもあるピュアの正義。
ものすごく忙しく、苦しいことすらある日常の中で、その存在を忘れずにたまに覗いてみて。
そして、たまに勇気をもって取り出してみて。ほっとヨガで呼吸整えながら、無理せず手を差し伸べてみよう。何か開けるかもよ。
たまにでも自分を見つめ直す、その大切さを教えてもらった気がする。
ありがとう!!
そうだね。何か原点みたいなもの。自分の中のピュアな正義というか、善意。これをたまに見つめるって大事だよな。
自分にできること、頑張ろう☆
個人的にPodcastを聞かさせていただいていました。
はじめまして。
介護の仕事をし、大学院に通っている身分だから言える負け惜しみなのかも知れませんが「個人的な成功」とは人生の一部であって本質ではないことには共感します。
ブログを拝見し、「自身と丁寧に向き合」えば、「私」は「私」だけで生きて、いない/きていないことに気づき、結果「祈る」ことが自然であり、他者との繋がり、真友や芸術、宗教等という、金銭的な損得、役に立つ/立たないという現代のモノサシからは、離れた価値観を持つことになるのだろうと思いました。
仏教。神道。キリスト教。イスラム教。ユダヤ教などなど、教義は違えど創始者本来の目指すべき/目指したかった真実は一つであっただろうと認識しています。祈ることがわかれば、真実がわかり、愛や慈悲が特定の宗教に限定されるものではなく、よって、政治や欲望成就の仕組みと結びつくことがなければ一致する可能性はあると考えています。
それができないのが、かなしく、弱い人間であり、だからこそ、一人一人が自覚して目指すべき真実なのかもしれません。
自分にできることを少しずつしていこうと思います。
ありがとうございました。
m(_ _)m
個人的にPodcastを聞かさせていただいていました。
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このくだり、すげえ面白い!みんなそうだよ!って思っちゃった笑
ごめんごめん
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すごく深いコメントありがとうございました!
こういう熱い反応は本当にうれしいです。自分がこの人生で人に何を返していくのか?それを追求するとき、自分の人生は本来の輝きを取り戻すものだと信じています。
お互い、頑張りましょう☆
さすがチャイさん、御高説!素晴らしかったです。心が暖かい想いに満たされました。ホントにありがとうございます。
ありがとうございます!
七転八起のつもり、積極的に失敗して、その分成長していこうと思っています。これからもいろいろ教えて下さい☆