【セカザツ文字】で三大一神教の話をしたので、今回は2010年5月15日の日記から「三大一神教についてのまとめ」を転載しようと思います。
当時付き合っていた彼女のちょっとした質問から話は始まります。
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「ねえ、なんでエルサレムってあんなにもめてるの?」
この前ふと、こんなことを聞かれた。それが3時間宗教学コースの始まりだ。(注:これが原因で別れたわけではない。)
エルサレム問題を話す前に、そもそも三大一神教とは何なのかについて確認する必要がある。本当のエルサレム問題は宗教問題ではなく、政治問題的な要素の色合いがずっと強いのだが、一般には宗教問題だと思われているのは誠に遺憾である。
宗教は怖い。エルサレム問題は宗教、なかんずく三大一神教のイメージを非常に悪いものへと変えてしまった。エルサレム問題を聞いてくる人は、宗教のことについての理解を図りたいと思っている人が多い。だからこそ、エルサレム問題そのものよりもそもそも三大一神教とは何か、それがいかに生まれたのか、その人間主義的な背景についての話が大事だ。僕はそう思った。
というわけで、今日は三大一神教の話をしようと思う。三大一神教とは、ユダヤ教・キリスト教・イスラームのことである。
興味のある方はご一読を。
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今日では、閉ざされた一神教のイメージすらあるユダヤ教だが、その思想の出発点は、複数の神々の欲望と気まぐれに翻弄される人間の運命を解放することであった。(たとえば、古代ローマのオリンポス十二神の淫乱にどれだけ人々が翻弄されたか、古代エジプトの神々やファラオに異民族がどれだけいじめられたか)
ユダヤ教はこうした古代多神教社会において、まったく新しい思想を展開した。それこそが、唯一神という思想である。唯一にして全知全能の絶対者。これを立てることによって、神々同士の争いはなくなった。また同時に人間は神との約束を守ることによって是とされる存在であり、神の律法を守る限り、その存在を保障されるようになったのだ。これがいわゆる旧約である。厳格な一神教の概念はユダヤ教によって始まったと言えると思うが、それは当時の世界(多神教世界)において、極めて異質で革新的な思想であったと言える
しかし、時代が進むにつれて、神の律法は、次第に人を守るものから人を縛るものへと変容していった。これはあらゆる宗教や主義にも見られる形式化の過程である。
紀元前後のユダヤ世界において形骸化したユダヤ教に異を唱えたのが、イエス=キリストである。 イエスは、神の愛を説いた。神は人々を律法で縛り苦しめる存在では決してない。神とは愛そのものであると。そしてあらゆる人間はその身そのままで神の愛を受けることのできる存在であり、さらには神を信じる心さえあるならば、神の祝福を受けることができると説いたのだ。
イエスの言動は弱き貧しき人々に対する愛に貫かれていた。その死の瞬間まで貫きとおされた彼の愛は、彼自身がまさに愛の当体であったことを示した。これが、神の子イエス論、後の三位一体論の骨格となる。キリスト教において、イエスは人の姿をした神 =愛そのものであるのだ。
キリスト教において、人間の姿をした神の存在が提唱されたのは、唯一神の完全性を矮小化してしまうことであり、神に対する重大な冒涜である。そう考えているのが、三大一神教最後の宗教、イスラームである。
イスラームは、預言者=人と神を明確に分けた上で独自の神学を展開した。神に対する絶対服従を条件としながらも神の慈悲を説き、弱者を救済する制度を始めとする宗教法を生活の中に根付かせることで独自の世界を作り出すことに成功したのだ。
イスラームの生まれた砂漠の部族社会は前文明的な未開社会であった。イスラームはこの未開の社会にに法という概念をもたらせた。すなわち、傍若無人なリーダーが乱暴に統治する古代アラブ社会を慈悲深き神の法によって、安穏なものに変えていこうと試みたのだ。これは預言者ムハンマドの実際の心情であったのではないかと思う。
三大一神教は、人間のために説かれたと言ってよい。人を神々の気まぐれから解放すること、弱さや貧しさから救うこと、乱暴な社会を正すことと、いずれも人間をより人間らしく生かせていくための智慧が結実したものなのだ。
三大一神教の奥底に流れる人間主義は、その後、西欧ヒューマニズムの底流となり、今日の人権思想の土台を作ったともいえるだろう。
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三大一神教はすごい!熱いし、やさしい心があるのだ。
本当はそれぞれについてもっともっと語りたいが、まずはさわりということで、ここまでは是非そう思っていただきたい。
三大一神教を知る上で勉強になるおすすめ本
コメント
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いい感じだね。もっと深い所まで期待しています!!
3時間コースいきましょう!!
くわまんは個人コース受講みたいなもんだからな。笑
もう3時間は話したでしょう?
これからも宗教の話をたまにアップしています☆よろしく!
いつもPodcast楽しく拝聴しております。
イスラエル問題は宗教問題もさることながら領土問題の方が色濃い気もしますね。
いつかこの地をこの目で確かめたいです。
僕もいつか行ってみたいです☆
もしも行かれることが合ったら是非お話を聞かせて下さいね。これからもBlog、よろしくお願いします☆
最後まで一気に読んでしまいました。
ありがとうございます!
またいろいろ書いていきたいと思いますので、今後ともどうぞよろしくお願いします。
宗教は時代に沿って変わることで生き残り、現代にも通用するものとなるとセミナーで聞いてその通りだと思う。お寺でロックコンサートしたり、神社でアイドル運動会したりなどはちょっと違うような気もするけど、お寺が生き残るのも経済活動は必要で法を説くだけでは難しい社会なのかも知れない.一神教も良い方向へ変わって欲しいと願います。ところでキリスト教イスラム教もユダヤ教にしても開闢以来2千年以上たっているのに、未だに統一されないのは理由があるんでしょうか。電磁気力や核力、重力などは数十年で統一理論がうちたっているのに、宇宙の真理は3つに分かれたまま。世界は共存の時代に入っていると思うのは時期尚早なのでしょうか。
むしろ時代と共に、あらゆる物事は多様化しているようにすら感じています。
今回の一神教についても、キリスト教一つについてもその中身はどんどん多様化し、統一の流れとは程遠いです。
宗教が一つの原理として統一されることがもしもあるのならば、それは一重に「人間のため」「人類の幸福のため」「世界の平和のため」という価値観を、最低限のものとして揺るぎなく共有できる場合かなと思っています。この考え自体が少し偏っていることも承知のつもりではありますが。「人の幸福に貢献しない」、「世界の平和に役立たない」宗教は、「悪」であるとあえて言い放ちたいのです。これはまったく個人的な信念ではありますが、人間にとっての最低限度の価値観はヒューマニズム、今日でいう人権思想の上に共有されるべきで、それを全肯定する思想の上での統一がありうると思っています。だから、本稿では、あえて人間の外に絶対神をおく宗教の代表格を「ヒューマニズム」の観点からとらえ直す試みをした次第であります。