大学卒業時、オレは卒業旅行に行かなかった。
行けなかったというのもあるけど、やはり”行かなかった”のだと思う。
今考えると、
「もうすぐ社会人。学生として遊んでられるのも最後だよ」
みたいなコンセプトにとても違和感を感じていたのだと思う。
学生時代は自由に何でもできて遊べる時代で、社会人になったら我慢して仕事をしてお金を稼ぐ日々。
社会人とは忍耐であり、働くとは我慢であり、お金を稼ぐとは大変なこと。
周りの大人は、社会の話や現実の話をする時、何かをわかってるふりをしながら(子どもにはわからない何か)、オレにこんな常識を話してきたと記憶する。
周りには優しい大人が何人もいた。
ずるい人や悪い人は身近にはいなかった。
誰もが子どものために尽くしてくれる優しい大人で、そういう点ではとても恵まれて育ったと思う。
でも本当の意味で子どもとして“憧れる大人”に出会ったことはなかった。
そして、オレは本当は、ああいう大人になりたい、大人になったらあんな風に生きるんだみたいな大人に会いたかったんだと思う。
***
高校生になったらすぐにバイトをした。
県立の進学校だったけど、バイトは許可制だったので、高1の6月からすぐにバイトを始めた。
とても楽しかった。自分が働いたことがお金になる喜び。
仕事というのも新鮮で、ファミレスのキッチンだったんだけど、ユニホームとかが無償で支給されることとかもとてもワクワクした。
そして厳しいけど、いろんなことを真剣に教えてもらえて、できることがどんどん増えていく。
バイト終わりは22:00、控え室で社食を食べて帰る時に大人になったと感じた。
仕事の疲れも心地よかった。
大学生になったらすぐに留学した。
1年生の秋に試験を受けて、2年生からトルコに行った。
大学生なら海外に留学してもいいっぽかった。
まだ一度も見たことのない世界に行ってみたかった。
外国で思いっきり異文化に浸りたかった。
外国語ができるようになりたかった。
トルコでの生活は実際は辛いこと、大変なこともたくさんあった。
でも嫌なことが全然思い出せない。
嫌なこと以上に楽しいこと、新鮮なこと、刺激的なこと、自分を成長させてくれること、貴重な経験が溢れる毎日だったからだ。
トルコに行って日本のこともよくわかった。
自分のことも少しわかった。
日本で頑張ろうって思えた。
大学卒業の頃、学生が終わるのが楽しみで仕方なかった。
それは、限りなく自由で自在で何でもできる社会に、ついに飛び込めるからだ。
オレはすぐには就職しなかった。
社会で思いっきり遊びたかったからだ。
そしてそれで生きていけるものだと思ってた。
だから契約社員で夜だけ働くことにした。
***
昔、どこかで聞いた話だが、
子どもに「大人になりたいか」と聞くと、「なりたい」という。
どうしてかと聞くと、「好きなものが買えるし、おしゃれもできるし、車にも乗れる。いちいちお母さんに聞かなくていい。」っていう。
大人に子どもに戻りたいかと聞くと「戻りたい」という。
どうしてかと聞くと「働かなくていいし、毎日ご飯作ってもらえるし、欲しいものも頼めば親に買ってもらえる」っていう。
*
子どもは大人になるために頑張る。
嫌いなものも努力して食べるし、苦手な勉強にも根気強く取り組む。
大人に言われたルールを守り、ゲームの時間や帰宅の時間も守る。
毎日学校にも行く。
子どもって大変だ。
でも全部は大人になるため。大人になったら自由になれるからそれまでの辛抱だ。
大人は生活するために頑張る。
嫌いな仕事でも一生懸命に取り組み、苦手な上司や取引先にも愛想笑いして関係を繋ぐ。
暗黙の常識というルールに神経を使い、やっとの事で手に入れたお金でわずかばりの趣味で気分転換する。
そうそう仕事も毎日行かないといけない。
大人って大変だ。
でも何とか子どもたちが育って定年になれば自由になる。それまでの辛抱だ。
***
オレの親父は定年前に死んだ。
仕事がすごく大変で家計も厳しかった。
オレは何一つ親孝行できなかったことを悔やんだ。
定年後に楽させてやりたかった。
でもそんな日々は来なかった。
オレは思う。
人はその瞬間いつでも自由であるべきだと。
いつでも自由な今を楽しむべきだ。
なかんずく、人と過ごす時は「今」が全てだ。
美しい過去はもう過去で、嬉しい未来はまだ来ていない。
*
ただ、人生は「今」だけであるという考えには同意はできない。
人生はあくまで「今」と「未来」なのだ。
今だけが良ければ良い訳では決してない。
でも未来のために今を犠牲にする必要はない。
自分が描いた輝かしい「未来」の光は必ず「今」をも照らす。
だから素敵な未来を描き、そこに至るワクワクする「今」を生きるべきだ。
そういう意味で「今」に集中し、「今」を一生懸命生きるべきだと思う。
***
20年前の自分が今のオレに憧れるだろうか。
子どもの時のオレが、今のオレを見て「ああいいう大人になりたい」と思うだろうか。
答えはNOかもしれない。
でも、オレは目指している。
若き自分が憧れる自分になることを。
若きオレの期待を裏切らない自分になることを。
目指す限り道は開けると信じている。
何度も挫折してきた。
自分に失望してきた。
まだ癒えてない傷もある。
回復できていない自信もある。
でも、オレは諦めたくない。
若きオレの目標となるようなかっこいい大人になることを。
辛うじて残った希望と確かな友情、そして自分を信じる信仰を糧に今日も自分の道を行こう。
少し休んでまた出発だ。
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コメント
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チャイさん、こんばんは。いろいろと思うところのある記事でした。
子供と大人の境目は一体どの辺にあるのでしょう?自分自身を振り返っても、歳だけは着々と取り続けているのに「立派な大人」になったという自覚が全くありません。大学を卒業して就職をした。結婚もした。子供も生まれた。会社でも責任ある仕事の場を与えられた。子供は独立して会社人生も残すところあとわずかとなった。ささやかながらそれなりに充実した「人生」を歩んできたと思います。不満を言ったら罰が当たるだろうなという謙虚な気持ちにもなります。
でもいつかチャイさんが言っていた言葉、「自分は見事に生きているか」という言葉を思い起こす時、自分はまだまだ完全に生き抜いていないなと感じてしまうのです。人として、男として、日本人として、今の時代に生を受けたからには、自分が生まれてきた「使命」の様なものがどこかにあるのではないか、そんなことをふと思ったりもします。そんなことを考える必要など全く無いのに、日々穏やかに、健康に、食べるものに不自由しないで生きられるだけで、十分に幸せな筈なのに、分不相応に「生きる意味」など考えてしまうのは一体なぜなのだろうかと、時折苦笑いしながら考えてみたりします。実に仏教的ですね(笑)
この歳になって「自分はまだ子供」と言うとさすがに「いい年して何を言っているんだ」という気になります。でも年齢を重ねるだけでは決して「悟り」なんて自然に下りてはこないんですよね。今、自分自身を納得させるために自分に言い聞かせている表現は「大人は自分の翼で羽ばたく意志と力を持っているものだ」という言葉です。勝手に考えました(笑)。きっと自分自身が不完全燃焼していると感じる気持ちの裏には「自分は羽ばたける翼を確かに持っている筈」という生まれながらの根拠のない確信があるからだと思うんですね。その私の感じる「翼」がチャイさんの言うところの「希望」なのかも知れません。
取り留めのないことを書き綴ってしまいました。チャイさんの今後のご活躍を祈念しております。