「結果がすべて」
思えば、学生時代からの長い間、そういう思想が支配的な環境で過ごしてきた。
そしていつも、本当にそうかな?とささやかな疑問というか、抵抗というか、煮え切らないものを抱えてきた。
やっぱりいつも「結果」というものは、何よりも力強くて、結果が出せないと発言権は急激に弱まり、結果が出されば、立場はとても強くなる。
だから心のどこかに疑問を持ちつつも、いつしか「やっぱり結果だ」って思ってきた。
よい成績を収めたおかげで得た自信や、結果のおかげで得た信頼、結果を求めるが故の圧倒的な闘い。
実際には、そのすべてがオレの人生において重要な位置をしめている。
でも、それでも、やっぱり、今、再び、「結果がすべて」という思想に疑問符を投げかけたくなるんだ。
*
実際にはこれまで、何度か、「結果に至るまでの過程が大事」と考えていた時期もある。実際にそういう風に取り組んだこともある。
でも、そうすると、どうしても生ぬるくなって、結果は絶対に出ない。結果を出すには、やはりそれ相応の勝負感が必要であり、戦う必要がある。
結果が出ないと認められていない気持ちが高まって自尊心が下がる。
結果が出ないことが続くとこれでいいのかなと疑ってしまう。
結果が出ないと次第に不安になって自信を失っていくんだ。
そして、オレは弱いんだって痛感させられる。オレはやっぱり結果がほしい人なんだ。
でも、それでも、今再び、「本当に結果がすべてなのか?」って思う。
結果って、自分でコントロールできない。
自分にコントロールできないものに、自分の自信の根拠を置くって、実はとっても不安定なことな気がする。
本当に頑張っても結果が出ないことがある。
いくら思いが強く、本気でも通じないことがある。
結果って実は、半分は運だからだ。
運ってのは、引き寄せようとして力むと逃げていってしまうもの。
オレは、だいぶ運を逃してきたから知ってる。
***
神よ、
変えられないものを受け入れる心の静けさと
変えられるものを変える勇気と
その両者を見分ける英知を我に与え給え。
(ニーバーの祈り)
という言葉を思い出した。
変えられるものは変えていこうじゃんと思う。それはこれからも変わらない。
今、オレに必要なのは
“変えられないものを受け入れる心の静けさ。”
もっと言えば、自分の力ではどうしようもない結果、他人の気持ちに対して、もっと無頓着になるべきってこと。
そして、変えられるものを変えていく、つまり自分にできることを努力していくということ。
実際には、その二つを見極めることは難しい。だからニーバーは神に祈ったんだろうな。
*
メンタルトレーニングの本、読んでたらさ、自分にできることは、自分の心のコントロールだって。
そして、自分の心のコンディションさえよければ、選択や行動を誤ることはないって。
全ては自分の心を制することに尽きる。
それってとっても仏教的だ。
心の師とはなるとも心を師とはせざれ
(日蓮)
メンタルトレーニングについて学ぶ際、一番に頭に浮かんだ言葉だ。
心をコントロールできれば、世界は無限に開ける。これって仏教思想の究極。
自分の心のコンディションを最高の状態へと高めていくには、結果に左右されてはならないって思う。
ここで、やっとしっくりした言葉が見つかった。
「結果に左右される必要はない。」
月並みな言葉だけど、「結果はついてくるものだ」、それを信じることだ。
オレはオレのベストを尽くすだけ。
今していることにただ一生懸命に取り組むの。
よく休んで常にベストを尽くせるようにコンディションを整え、その都度、物事に一生懸命当たっていくんだ。
***
あまりに寒い上に、浮足立った予定の一つもない傷心なホワイトデー。
恋愛も何も、結果って思い通りにならない。。
だから、そんなことを考えたよ。
コメント
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大丈夫。チャイさんは頑張ってると思いますよ(*^^*)
見当違いのこと言っていたらごめんなさいm(_ _)m
まあやさん
ありがとうございます。頑張ってる自分を認められるように、少しずつ努力しているところです。今後ともよろしくお願いします。
チャイさん
「結果がすべて」という考え方に、お目汚しですがコメント失礼いたします。
結果だけを追えば、自分自身を見失っていくような感覚になるのに、結果を追わなければ、自分は価値のない人間だと思ってしまう。それでも、自分みたいな人間に期待してくれる人がいると、結果を出して応えたい。そんな繰り返しの中で、自分はチャイさんのように、向き合って一生懸命にぶつかっていくことをしませんでした。不安や恐怖が、それを阻んだからです。チャイさんの凄い所はそれをやっちゃうとこですね。自分は逃げて、色々失敗しましたが、「結果」とは決して自分の理想通りの良いものだけでなく、最悪でボロクソに終わったものも、「結果」なんだと思う事で落ち着きました。なので思い通りにならなくても、いいんじゃないかなんて、思います。
わー、長文になってしまいました。さらに駄文。失礼いたしました。
最後に‥‥自分はチョコあげてないのに無駄に期待する傷心のホワイトデーでした。笑
ティバコさん
僕も実は胸を張って言えるような結果ばかりではありません。でも、少なくとも“どんな手段を用いても”結果にこだわってきた時期があります。それは当時から必ずしもいいものではなかったような気がします。結果とプロセスは必ず深い関係をもっているので、真に、結果にこだわるのなら、そのプロセスの一つ一つもこだわりそのもであるはずなのです。だから僕は「今」にこだわろうと思っています。結果は気にしないけど、結果につながるであろうプロセスの一つ一つ。それはまさしく「今」なのです。
色々書いてしまいすいません・・
最新の「畳の目」も拝聴しまして 凄く・・こう、感じる事がありました。
チャイさんの焦り、ある種のいら立ちや苦しみ、よく分かります・・
いつでも自分が、このままじゃいけないような気がしてしまったり
孤独感や、結果の薄さに途方もなく悶えたり・・
自分もずーっとそうです。
精神力を鍛えようとしても
自己コントロールをしようとしても
どんな啓発を受け、それをどんなに正しいと感じたとしても
何故か気が付くと、いつもの自分に戻って行ってしまう。
歳をとり 強くなっているはずの自分が、実はただ疲れただけのような気もしています。
時に大義を求めたり
あるいはオールオッケー的な ありのままを受け入れようとしたりもしましたが
結局変わらない、今の自分に戻ってきてしまうような・・
そして、悩みも苦しみも、当然そのまま、ズドンとあるのですよ・・。
誰かに認められたいだけなのかと思う時もあります。
でも、誰かに認められても、渇望は減りませんでした。
只々寂しいだけなのかもしれないとも思います。
しかし(私は家庭持ちで、こんなことを書いてはいけないのですが)
何をどうしてほしいのか、何を求めているのか、具体的なゴールが無いまま、ただ寂しさがあったりします。
私は、幼少期のあれこれが
完璧な自分以外許せない自分を作っているっぽいなと思っています。
心理学者の加藤諦三氏の本を読んで衝撃を受けました。まさにこれだ・・と。
ただ、それが分かっても全然、解決しない自分がいます。
こうやって苦しんでいる方・多いんじゃあないかなとも思うんですよね・・みんな幸せに見えるだけで・・
駄文失礼しました。いつも実のある放送等、有難うございます・・!
tsさん
「ただ寂しいだけ」
それ、なんか知らないけどすごくよくわかりますよ。オレもそうなのかもしれない。ただ寂しいだけなのかもしれないって思うんです。でも、この感情っていうか、癖っていうか、自分の性っていうのは、本当にどうしようもないものですね。そんで悩んでしまいます。どうしたもんかね。オレは自分の寂しさで他人を傷つけてしまったり、迷惑をかけてしまうこともあるけど、でも、自分が悩んで体当たりしてく姿が誰かの何かの励みになったり、何かの思索のきっかけになったらなと思ってます。もう寂しいのは仕方ないもんだね。今のところ、対応策がないので自分が変な諦めですな。
「企業では結果がすべて。 でも、教育は違う。プロセスが大事。」
とですね、つい最近私の親しい教授がツイしてました。
結果を出すって、それこそチャイさんが言うところの「戦闘モード」だとおもうんですね。
仕事だといつも戦わなくてはいけないのかもしれませんが・・。
ただ、日常の自分の目標だったり、っていうのはいつもいつも「戦闘モード」では疲れちゃうし、それこそ勝率も落ちるのでは??すごいスーパーマンなら別として、凡人は「ここが勝負だ!」というところで仕掛ける。でも仕掛けるまではやっぱりそのスキルなり、運の見極めなりの「過程」が大事なんじゃないでしょうか。(あぁでもこれはチャイさんも書かれてますから、私が余りに的外れではないってことで少し安心。)すべてに結果を求めると疲れてからっぽになりそうで私なんかコワイです。プロセスを経るうちに自分が少しずつ何かを修得したり、自信を感じたり。そういう時間の方が実はずっと長くて、たま~に勝負かな。でもその時はもしかして勝ち負けなんかどうでもよくなっちゃってる自分も居るかもしれない、なんてね(笑)だって、私、がんばったんだもん(爆)誰も褒めてくれなくても自分が褒めてあげればいいぢゃん?という、まぁ、ごめんなさい、単純な性格なもんで。(チャイさんみたいに真面目な人には理解しがたいいい加減さかも。。汗。)
あ、そういえば宇田川さんが「世界に一つだけの花」と言われたくない理由はなんとなく私も感じました。だって、彼も誰よりもよいもの(納得できるもの?)を作ろうとしているでしょうから、それは「1番」とか「2番」とか、そういう評価を受けるものではない気がするからです。東山魁夷も平山郁夫も「どっちが一番」とは言えないけど、見方によっては「こっちのがいい」という鑑賞者の個人的な価値観によって優劣がそこに存在する。でもそれは万人による見方ではない。だから本当には優劣はつけられないと思うし。
「世界に一つだけの花」は頑張らなくても努力しなくても「ひとつだけの花」にはなれます。でも宇田川さんが目指しているのは「世界に一つだけの、キラキラと輝くよく磨かれた宝石のような花」なのではないのでしょうか。「過程」を得て磨かれるその差は雲泥だと思います。
全体的に長文の上、生意気言ってごめんね。てへっ。
自分で自分を認めてあげられたら最高ですね。僕はやっぱり不幸って、どこか人と比べてしまうところから生じる気がしてなりません。
あと、寒さね。結果っていうのも言ったら、他人の目にすごくかかわってくるもの。それに比べて過程って自分の目の話のような気がします。いろいろ考えさせられますね。