この前の畳の目で少し話題に挙げた話なんだけど、最近つくづく「今を生きること」について考えてる。
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最近、仲良くさせていただいている知り合いのアーティストさんから、メンタルトレーニングを受けたことの話を聞いて、メンタルトレーニングにも興味が出てきて少し調べてみたんだ。
いくつか本を買ってみて、ざっと見てると、キーワードになるのは「今」を見つめ、「今」に生きること。
考えれば考えるほど「今」って捉えるのが難しい。
「今」はすぐに「過去」になる。そして、「今」を見つめようとして力むと、どうしても少し「未来」になってしまう。
メンタルトレーニングでは、「今」「ここ」「自分」を意識することが大事って書いてあったんだけど、これがなかなかうまくいかないんだ。この前の畳の目でも話したけど、オレ、すごくすごく「今」じゃないところを生きている。いつもだいたい「未来」の「何かの為」に生きてる。そこから生まれてくる空虚感との闘い。これが今のテーマ。今のテーマが「今」なの(笑)
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最近、すごく素敵だなと思ったアーティストさんがいてね。その人のHPを見たの。そしたらまた、ドンピシャ。
「生きるためにはまず「今」を見つめること」
って書いてあるのさ。そして、今を生きている証を絵に刻んでいくんだって。
なんか、一つの考え事をしてる時にいろいろシンクロしてくることない?
この作家さんの作品に惹かれた理由は、もしかしたらオレがテーマにしている「今」が刻まれた作品だからなのかなとも思ったし、さらに逆に、この作家さんがいったいどうやって「今」に向き合い、「今」を捉えるのか、「今」を「刻む」のかに断然興味が出てきてしまったよ。いつか機会があったら、きちんと聞いてみたいなと思ってる。
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たぶん、いろんなヒントがきてる。オレに対して、「今」、いろんなヒントが与えられてるんだなと思う。
twitterでも、あかりさんがたまたま過去の畳の目の文字起こしを引用されていたので、それを改めて読んでみたら、また「今」というテーマに出会ってしまった。
その文字起こしを少し整理したので、よかったら読んでみてください。
音源はPodcast「今日も畳の目を数える。」の第021回「カジュアル悟りについて考える」の回の33:45~です。
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胡蝶の夢からカジュアル悟り
宇田川:今寝起きの5分だよ。知ってる?起きて今5分の状況。
チャイ:(笑)。でも2時間前に収録の約束してたろ?
宇田川:そうなんだよ。俺夢の中で、超、お前に謝っている夢見てた。「ごめん俺起きれないや」っていう電話で謝ってたの。
チャイ:起きてよ(笑)。でもわかるわかる。すごい遅刻で焦って走っている夢みるよね。出来る限りのスピードで飯食って、ものすごいダッシュで。
宇田川:気付いてるんだよね、寝てるのにね。俺遅れてるってね(笑)。
チャイ:超スピード出してんだよね(笑)。
宇田川:じゃあ起きろよってね(笑)。でも夢の中で1回謝っているのでちょっと大丈夫かなって。ごめんごめん。
チャイ:でもあれって、起きて速攻で動けばいいのに、夢の中だって設定に気付けなくて、そこで全力出しているから、全力だす場所を間違えたって典型的な例だね。本来は本気出すべきとこじゃない方で本気出してるから(笑)。
宇田川:本気出すよね。
チャイ:夢でめちゃ気疲れして、起きてダブルでピンチ。
宇田川:目が覚めた瞬間に気付くのって不思議だよね。目が覚めた瞬間に時間が明らかに違うのが時計とかみないでも。
チャイ:ああ、それわかる気がする。
宇田川:あれ不思議だよね。エジプトの時代から七不思議として伝わる。
チャイ:マジで。昔は時計なんかないから日常だったんじゃないの。
宇田川:ほんとだ、時計ないや。賢いね(笑)。
チャイ:今の話おもしろくて、「胡蝶の夢」って知らない?
宇田川:「コジョウ」って湖の上?
チャイ:違う違う、「こちょうのゆめ」。蝶の見る夢。
宇田川:蝶は夢みねえよ。
チャイ:荘子っていう中国の思想家がいて(荘周)、その人が書いた「荘子」って本がある。
宇田川:「荘子」って同じ漢字?「荘子」の本って同じノリってこと?
チャイ:孟子が書いた本は「孟子」っていう中国ではよくあるやつ。書いた人の名前がそのまんま本になっているやつ。その荘子の中のハイライトなんだけど、これ結構深いんだけど、夢の中で蝶としてひらひら飛んでたんだって。
宇田川:蝶になってたってこと。
チャイ:そう、自分が蝶になりきっていて。ところが目が覚めた時に自分は果たして蝶になった夢を見ていたのか、それとも、起きたあとの今の自分が蝶が見ている夢なのか。主観と客観、主体と客体、自分の位置どっちが本当かってこと。
宇田川:俺ってなんだろう?てこと。
チャイ:自分が蝶として飛んでいる間は自分が蝶と思いきっている。完全に自分が蝶なんだ。蝶として飛んでいる時は自分は蝶と思っているんだけど、目が覚めた瞬間全部無しになる。自分は自分で人間だって思うんだけど、自分が寝てたときは自分は蝶だと信じ込んで飛んでるから、自分が人間とはつゆ知らず、目がさめたこれが実は夢で、これは逆に蝶が見ている夢なんじゃない。
宇田川:でもそれハイライトなのに教えがないんでしょ。それ聞いた周りの人たちはどうしたらいいの。
チャイ:でもなんか荘子ってこういう感じの本なのね。全部、物語・説話になっていて、教えがなくて、説話で伝えているの。「小説」っていう言葉も荘子から出てるんだよ。
宇田川:小話の説話ってこと。
チャイ:物語とかお話になってんの。
宇田川:なるほどね。
チャイ:だからどちらが真の世界であるかってのが不思議だなあってことと、何が夢で何が現実かってことを考えるんだけど、最後にはどっちでもいいってことになる。
宇田川:仮に俺が蝶で、今が夢でもよくねえってこと。
チャイ:そう。どっちでもいい。なんでもいいってことなんだよ
宇田川:え、じゃあ、ほんとは俺がお前に遅刻の電話で謝っていたんだけど、あれが本当でこっちがその続きの夢ってこと。
チャイ:そうそう、そういうこと。
宇田川:もう一回起きたらこれやるのかね。
チャイ:そうだよ。
宇田川:そしたらまた同じ事話そう(笑)。
チャイ:でもとりあえず、荘子は二元対立みたいなやつ、例えば夢と現実とか、何かと何かの境目を極力無くして考える。全てのものはそのありのまま同じのような、よくわかんねえけど思い出しただけ。
宇田川:瞑想とか悟りとか最近勧められるんだけど。
チャイ:開いちゃった?
宇田川:開いてないんだよ。開いてたら早起きくらいできるよ。
チャイ:(笑)。いや夢の中で開いて、今が夢なんだよ。
宇田川:ああそうか。じゃあどっちでもいいかな(笑)。二元対立でいったら、悟りを開くか開かないのも二元対立だから開こうが開くまいが一緒だね。
チャイ:そうだね。それ仏教の究極なんだよね。
宇田川:え、(笑)。ここでブレーキ踏むべき。
チャイ:まじで究極の菩薩思想とは一体なにかってことになる。成仏って何ってこと。自分が成仏するって何かという捉え方によって、かなり深いところまで行く。出家して修行した先に成仏があるというのが仏教の伝統的な考え方だったのに対して、出家しないでその身そのままで仏になる「即身成仏」もあるよっていう提案が大乗仏教において起こるんだけど、その時に聖と俗がどう違うのかが。
宇田川:俺の方だと、ちょうカジュアル成仏、ライト級カジュアル成仏、ライト級カジュアル悟り。
チャイ:え、何?ボクシングの話。
宇田川:違うよ(笑)。
チャイ:赤コーナー何とかとかゆって、どっちも瞑想して悟った方が勝ちみたいな(笑)。
宇田川:タオルとか投げ込まれたりしてね、今日は「無理無理!煩悩入ってるから無理!」なんて(笑)。
チャイ:コーチから「お前あっちの女子の方見たな!」とかね(笑)。
宇田川:俺速攻タオル投げられるな。入場の時にちらちら見ちゃう(笑)。
チャイ:入場の時はいいけど、戦いが始まったらシビアだな。
宇田川:ボクサーって客席のかわいい子みないのかね。
チャイ:見ないでしょ。
宇田川:絶対みないのかな。
チャイ:見ない、見ない。
宇田川:だって漫画とか試合中に応援に来た恋人が病院を抜け出して死ぬかも知れないのに来た白いワンピースの麦わら帽子の恋人がちらっとみえて、「うおーーっ」てこととか。
チャイ:それはたぶん試合中じゃないね。
宇田川:じゃあ折角見に来てくれた病気の恋人もみない。
チャイ:見ない、見ない。心だけ受け取った感じ。
宇田川:(笑)。カジュアル悟りなんだけどさ、急に俺の話がしたくなった(笑)。ボクシングはどうでもよくなった(笑)。別に勉強してるわけじゃないんだけど、とりあえず瞑想でもしてみるかってやってみると、結局「今」ということに集中するらしいの。「今」にすごい集中していくと、「自分」ということも関係がないらしいの。「自分」と言うのは俺が30年くらい生きて来て、その中で少しずつ記憶とか思考回路使って「自分」というアイデンティティを作ってきたんだけど、それは過去のことなので、今の瞬間には全く関係がないらしい。と言う事は「自分」もいない。だから蝶だろうが、夢だろうが、「今」しかなないからどっちでもいいんじゃないってこと。結局のところ蝶のときは蝶として今があって、夢から覚めたら、夢の中で人間になった自分は「今」としてしかないから、だから荘子は二元対立のどっちでもいいんじゃねえ論理になった。蝶なら蝶の時は蝶だし、人なら人の時は人なだけじゃないの。
チャイ:なるほど。意外に深いこと言っている。
宇田川:寝起き15分なんだけど。
チャイ:だからこそだ(笑)。寝ているのと起きているのの間にいるから(笑)。通常入れない境地に居るから(笑)。カジュアル悟りナウだな(笑)。
宇田川:カジュアル悟りレポートだよ(笑)。
チャイ:なるほどね。
宇田川:そうそう。
悟りのBefore Afterと英雄譚
チャイ:結構その話も面白いんだけど、結局用意した話できねえな。カジュアル悟りで話を続けて行くか。
宇田川:疑問に思うのが、悟り開くじゃん。開いたらなんなのって話が疑問で、開くとすげえとかって何なのかな。
チャイ:悟りとは何かってこと?
宇田川:悟り開いたらどうなるの?
チャイ:ビフォーアフターのことね。
宇田川:アフターで俺がちょういい状態になるとする。物事に動じないとか、変な不安にならなかったり、やっかみとか、心の負のソースに洗脳されないとなったらいいのかな。
チャイ:いいでしょ。そうなれば最高だろ(笑)。結局悩んでるから苦しくて、苦しいから人生嫌だなと思ったり、逃げたいとかごまかしたり、遊んだり、と言うのが困るんじゃないの。
宇田川:そうなんだけど悟りの本読んだらね、
チャイ:それ読んだら解るんじゃないの?(笑)。
宇田川:読んだらますますこれ意味あるのかなって。その人のは普通になりますって書いてある(笑)。これ意味なくね?(笑)。普通になります。色んなことが普通になって、今までと何も変わらないっていうんだよ。
チャイ:それ意外と深いかも。
宇田川:意味ないんじゃないそれ。
チャイ:いや、例えば、桃太郎で言ったら、桃太郎がおじいさんおばあさんに育てられて、普通の生活して、その後鬼ケ島に行って、仲間引き連れて鬼に勝って財宝もって帰って生活する。この時に桃太郎の最初の生活と最後の生活は両方とも「普通の生活」なんだ。“英雄の帰還”っていう話を最近書いたんだけど、英雄譚には4つの段階が必ずある。①英雄は最初は旅にでる。②その後何かに遭遇する。敵だったり助けを求める人とか、冒険して敵を倒したり、ヒロインを助けたり困難を乗り越えて勝利する。③その後必ずそこに残ってくれって懇願される。④でも英雄はそれを断って元の古里にもどる。この①~④で英雄譚っていう流れになる。
宇田川:ひとつの公式だね。
チャイ:その時に最初の生活と、勝って戻った生活はほとんど変わらないはず。
宇田川:ちょっとワンランク上の生活じゃない。
チャイ:それが精神的に上なんだ。わかりやすくはお金持ちになったりするけど、お金の問題じゃなくて、最初と最後はほとんど変わらないけど何かを乗り越えて冒険していきたワンランク上にいる。
宇田川:精神性が変わった生活。
チャイ:海外旅行に行って、楽しかった、色んな勉強になって戻ってきて普通の生活を送るときに、前の生活と今の生活は一緒なんだけど海外旅行で得た経験とか刺激とかが自分の日常を塗り替えている。
宇田川:通過儀礼みたいなもんかな?
チャイ:通過儀礼というよりは、かんたんにいえば経験値アップだよ(笑)。
宇田川:レベルアップ?(笑)。でもさ、そもそも桃太郎が悟っていればわざわざ鬼退治に行くこともなかったわけじゃん?
チャイ:あ、そうそう。だから、桃太郎でいえば、悟りの修行が、鬼退治じゃなくて自分の精神世界の話ということだよね。桃太郎は物理的に外に出ているけど、そうではなくて自分の心の中でそれをやってたらって話。
宇田川:桃太郎がそれを精神世界でやってれば、鬼も退治する必要もなかったし、遠くに行く事もなかったし、鬼は鬼で幸せに暮らして今まで通り普通に、桃から生まれた桃太郎も普通に暮らしましたとさと。悟っていればよかったけど、普通に暮らしたけど何も解決しないってどうなるんだろう。悟ったら。
チャイ:何も解決しない?
宇田川:今の俺がこの瞬間悟ったら、超普通状態に入るじゃん。そしたら、やる気とか湧くのかな。
チャイ:やる気の必要性がなくなっちゃうね。
宇田川:だから「もういいんじゃないですかねえ」って感じになっちゃうかなって。
チャイ:それもそれで深い話だな。結局、「煩悩」と「やる気」、「欲望」と「やる気」がすごく関係すると思っているんだ。上座部仏教は「煩悩」を全否定する。「煩悩」は全否定してそのうえに悟りを開こうとするけど、大乗仏教は「煩悩」を否定しないから。悟りのイメージが「聖」と「俗」をわけていないし、より「俗」の中での悟りの在り方を考えるの。つまり「煩悩」と共存。
宇田川:俺向きじゃん。そっちで行くわ。
チャイ:「煩悩」とどう共存するかという感じになる。
宇田川:「煩悩」の中で悟ればいいんだ。
チャイ:「煩悩」を否定しないのが大乗仏教のすごさの一つだと思うんだ。「煩悩」を否定しない、あらゆる事を否定しない中での悟りって面白い。あ、時間なくなったので今日はここまで。
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読んでくれてありがとうございます☆
気が向いたら適当にコメントしてもらえると嬉しいです。
コメント
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こんばんは!apakoと申します☆
以前に何度か聞いていた回ですが、「今」をキーワードにして聞くと、また違って聞こえて面白いですね!
以前は荘子=無為自然っていう結論に引っ張られて、
「主観も客観も簡単に入れ替わる曖昧なものだから、とらわれずにこだわらずに行こう!」みたいに受け取っていました。
今ポットキャストを聞くと同時にブログを読んでいたのですが笑、色々考えてしまいました。
「過去」「今」「未来」は川の流れみたいに切れ目がなくて、「今」を分断して考えたことありませんでした。「今」
ってすごく過去にも未来にもとらわれていますけれど、一度分断して、「今」を意識することって大事なのかもしれないですね。
昼食で例えると、「昨日飲み過ぎたからざるそば」にするのか(過去)、「太りたくないからざるそば」(未来)にするのか、美味しそうだからざるそばにするのか。同じざるそばでも味が変わってきそうな感じがしますね!
夢にしても悟りにしても、一度意識の分断があって、また元の場所に戻ってくる…何か示唆を含んでるような気もしてきます。(最近、なんでも深く考えてしまう畳の目症候群にかかってます笑。)
ちょっと深夜のテンションに任せて、ただ思ったことを書いてみました💦
ではでは、いつも応援しています〜☆
apakoさん
コメントありがとうございます。twitterもいつもありがとうございます。
確かに、「過去」「今」「未来」は途切れがありませんね。川の流れのように考えてみると、そもそも「今」を捉えるのは無理難題なのかもしれません。昼食のたとえ、とってもわかりやすかったです(笑)。えもそのたとえのように「今」を優先して生きていくとえらいことになりそうです(笑)。ここで、やはり「アリとキリギリス」の教訓が生きてくるのでしょうね。
日常のふとした一コマに哲学や芸術性を見出すのが畳の目??(笑)。僕らは昼間でも深夜のテンションみたいなもんですね。
先日は、お忙しい中ありがとうございました!!
とても興味深く読ませて頂きました。
絵を描くことって、今の自分を見つめることにつながりそうですね。
自分は絵を描くのが苦手なので、書道や茶道の時が自然と今の自分を見つめる機会になっている気がします。なんのこともない一連の作業というか作法の中で表現されるものと、感じ取れるものがあるんですよね。。祈りという行為・行動も突き詰めるとつながるのでしょうか?
うまくまとまりませんが、今後もブログとポッドキャスト、楽しみにしています!くれぐれもお体に気をつけて下さい☆
だいぶつさん
こちらこそ。久しぶりにゆっくり話せてよかったです。次回は是非お宅にお邪魔させてください。
一連の作業、作法の中で「自分」を見つめ、「今」に向き合うというの興味深い指摘です。逆に自分は書道や茶道には疎いので、新しい投げかけになりそうです。
またいろいろ話しましょう。